【作家・小川洋子 × 俳優・井上芳雄 スペシャル対談〈後編〉】「演劇を選ぶ人にはどこか「無私」の精神がある」

昨年2月、惜しまれつつ休館した演劇・ミュージカルの殿堂、帝国劇場。唯一無二の時空間に魅せられた観客のひとりである作家・小川洋子さんは燦然たる歴史をたどりながら縁ある人々に出会い、きらめきを物語に収めた。

帝劇で生まれ、帝劇で育ったミュージカル俳優・井上芳雄さんも、そのひとり。一瞬の幻が、人の心で永遠になる。演劇と物語、そして人生の不思議を語りあう。

「自分を育ててくれた温かいユートピア。それをつくり、受け継ぐ一員でありたい」(井上芳雄)

スペシャル対談 小川洋子(作家)×井上芳雄(俳優) 「自分を育ててくれた温かいユートピア。 それをつくり、受け継ぐ一員でありたい」

演劇を志す人には「無私」の精神がある

小川 さまざまなかたにお会いし、取材を重ねながら作品をどのように書いていくかを考えていたのですが、実は今回の作品の方針を決める言葉は、井上さんから発せられたものだったんです。

井上 えっ! 本当ですか。

小川 ええ。休館にあたり、井上さんが「僕は帝劇に恩返しがしたい」とおっしゃっていたとお聞きして、ああ、そうだ、私も、これまで取材してきたかたがたが語った帝劇への感謝の気持ちと愛を土台にして小説を書けばいいんだと心が決まりました。
実際、井上さんは昨年2月の1カ月間、帝劇のラストコンサートに出演し、身も心も捧げる時間を過ごされた。最終日に私も劇場にいましたが、もっとセンチメンタルになるかと思ったら、劇場を出るお客さまの表情は晴れ晴れとしていて、関係者の皆さんの様子もさわやかでした。

井上 たぶん皆、お別れのときですら帝劇にいられるのがうれしかったんじゃないでしょうか。僕もそうでしたが。

小川 終演後、舞台裏に私のような部外者がおじゃましても、まったく警戒されませんでした。演劇にかかわるかたがたは、とてもオープンなんですね。

井上 ミュージカルは多くの人が参加するので、特にそうかもしれません。初舞台のとき、プロデューサーから「演劇をやっている人たちは、皆いい人だから」といわれて、「そんなものかな」「いや、そうでもないぞ」と思ったりしたんですが(笑)、今はやっぱりそうかもしれないなと感じます。

小川 才能だけでなく、まわりとの調和や人間性も大事ということでしょうか。

井上 基本的に、自分のことだけを考える人は演劇をやらないと思うんです。歌いたいなら歌手になればいいし、演じるなら映像で活躍する道もある。でも、演劇を選ぶ人にはどこか「無私」の精神があって、劇場が好きで作品が好き、皆でものをつくりたいというふうに、主語を大きくする人が多い。そういう意味でも、やはりいい人たちが集まっているといえるんだと思います。

特別な存在であり続ける緊張感と責任と

小川 もうひとつ、井上さんの言葉で印象に残ったのが、「出演しはじめたころ、帝劇の暗闇がとても怖かった」ということ。
私もある日、公演が終わってすべての照明が消えた劇場の中を見学させていただいたのですが、そこは自分の指先すら見えない、これまでの人生で体験した最も深い暗闇でした。
しかし、そこに1本のピンスポットが当たった瞬間に世界が生まれる……その真ん中にいられるかたというのは、本当に特別な存在だと思います。

井上 「自分ってすごいんだ」「皆が僕を見にきている」なんてとても思えませんが、僕も舞台のファンなのでお客さまの気持ちは理解できる気がします。特に最近はチケット代が上がっているので、1回の公演に賭ける思いはますます強くなっているだろうなと。

小川 そんな観客の期待に応える側のかたがたが、どれだけの緊張感と闘いながら取り組んでいらっしゃるかも、今回、実感しました。
私のように家で仕事をしている人間からすると、その日、その時間に肉体を必ず劇場に運ぶというだけでも大変だと思えますが、井上さんはそれを長年続けていらっしゃる。’00年に帝劇でデビューし、25 年という節目の年に休館コンサートの座長を担われたのは、やはり特別なご縁をお持ちだからでしょう。

「感謝の気持ちと愛を土台に書く。井上さんの言葉で、心が決まりました」(小川洋子)

スペシャル対談 小川洋子(作家)×井上芳雄(俳優) 

がむしゃらでなく時に流れに身を任せて

井上 そういっていただけてとてもおそれ多いですが、本当に偶然というか、運がよかったということにつきるなと……。
好きだからここまでやってこられたわけですが、皆でやりたいという気持ちと自分がもっと輝きたいという欲とのバランスに苦心した時期もありました。
でも途中から、作品は自分だけのものではないと思えるようになったし、最近は特にあるがままでしかないという気持ちになりつつあります。完璧なものを見せたいと思う一方、その日の自分のベストを出すのが舞台俳優にできる最善なのだろうなと。

小川 がむしゃらではなく、時には流れに身を任せてみるのも大事だと?

井上 ええ。先輩がたもよくおっしゃるんですが、年々中身は充実しても体力が反比例するのが舞台俳優のせつないところだと。でも、そのせめぎ合いの中でいいものをお見せするのが自分たちの仕事であって、それを続けていく中で、時には帝劇の真ん中に立たせていただくような幸運が降ってくるのかもしれないな……という感覚でいます。

小川 新しく生まれ変わる帝劇で、井上さんがどんな役を演じ、どんな舞台を見せてくださるのか、今から楽しみです。この1年もあっという間でしたから、きっとすぐですよ。

井上 そうですね。自分が前の帝劇で味わった、ある種、ユートピアのような幸福な雰囲気をたたえた場であったらいいなと思っています。
俳優としてもっと厳しい場所にも行かなければと思って、あえて外に出ていた時期もありましたが、戻ってくるたびに、やはりとても温かく迎え入れてくれて。

小川 そして今は、井上さんが若いかたがたにそれを引き継ぐ立場になられた。

井上 はい。小川さんに物語にしていただけるくらい豊かなものを内包する場所なのだから、僕としては、やはり恩返しの意味もこめて、自分もそれをつくる一員でいられたらと。

小川 私はいつか、井上さんが舞台に立っているところを、井上さんご自身にお見せしたいんですよ。『闇が広がる』のイントロが流れた瞬間に、観客の呼吸が一体となる、あの瞬間を。

井上 確かに、自分ではなかなかわかりませんね(笑)。でも、そのわからなさかげんがまた、いいんだと思います。
※ミュージカル『エリザベート』で死を象徴するキャラクター・トートと皇太子ルドルフがデュエットする曲。井上さんはどちらの役も演じた。

Information
小川洋子さんの新作短編集『劇場という名の星座』

小川洋子さんの新作短編集 『劇場という名の星座』

スターと裏方。観客たち。そして、姿をもたない無数の魂も、そこに――。取材を通し「一等星があれば目に見えない星もある。それらがつながりあっての舞台なのだと感じました」と小川さん。帝劇でデビューした“プリンス”の千秋楽の一日を描いた「一枚の未来を手にする」など、逸話とファンタジーを結実させた物語が浮かび上がる。
集英社 ¥1,925

小川洋子
作家
小川洋子
作家

おがわ ようこ●’62年、岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部卒。’88年『揚羽蝶が壊れる時』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。’91年『妊娠カレンダー』で芥川賞、’04年『博士の愛した数式』で読売文学賞、’26年『サイレントシンガー』で毎日芸術賞ほか受賞多数。近年の作品に『掌に眠る舞台』(集英社)、『耳に棲むもの』(講談社)など。

井上芳雄
俳優
井上芳雄
俳優

いのうえ よしお●’79年、福岡県出身。東京藝術大学音楽学部在学中にミュージカル『エリザベート』でデビューし数々の作品に出演。読売演劇大賞杉村春子賞、菊田一夫演劇賞など受賞多数。ライブ活動、テレビ出演も。3/17まで『大地の子』、5/1より『アイ・ラブ・坊っちゃん』に出演。近著に『ミュージカル新時代』(日経BP)がある。

撮影/目黒智子 ヘア&メイク/金澤美保(MAKEUPBOX/小川さん) 川端富生(井上さん) スタイリスト/吉田ナオキ(井上さん) 取材・文/大谷道子 ※エクラ2026年4月号掲載

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