インスタグラムの序章に続きまして(リンクは最下段にあります)、長沢芦雪についての偏愛解説です。取り上げるのは、『龍図襖』(八面、島根県・西光寺蔵)。『奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド』(@東京都美術館、~4/7)で、通期展示中の目玉作品のひとつです。
この襖絵は落款から見て、南紀・無量寺本堂の『虎図襖』『龍図襖』(※非出品作)と同じころ、芦雪30代前半の作。作品は描かれたモチーフによって「雲龍図」(写真1枚目上)と「昇龍図」(同下)に分類されており、師匠の円山応挙譲りの写生的作風に見える「雲龍図」に対し、標本のようにユニークな描写の「昇龍図」のほうが芦雪らしいと注目されてきました。
しかし、この「雲龍図」が円山応挙の作品に似ているかと言われると、それほどでもないでしょう。応挙はとことん「写生」を追求するキマジメな人でした。彼が「楷書」なら、芦雪の基本軸は「草書」といっていいくらい。特に龍においてはその傾向が強く、応挙と見まがうレベルの細密描写の龍を見たことがありません。芦雪の龍は怪獣っぽく、手のリアリティがいまひとつです。
参考までに応挙の『雲龍図屏風』(2枚目、※非出品作)を上げておきます。芦雪を褒めるのがちょっと恥ずかしくなるくらい、とにかく上手い…! 丹念な質感描写、屏風の曲折に合わせた構図の妙。応挙の追求する「リアル」は、こんなふうに細部の緻密な積み重ねからなる盤石なものでした。一方で、完璧すぎるがゆえに退屈というきらいもあり、芦雪は大胆な”一発芸”的作風に進むべき道を見出したのかもしれません。
さて、芦雪の「雲龍図」に戻ります。厚い雲がズバッと掻き分けられ、龍がたった今、左腕を動かしたかのような描写がマンガみたい。そうした動感豊かな迫真性も芦雪らしいのですが、私は、画面中央の、襖の突き合わせ部分を挟む不自然な「縦の雲」こそ、注目に値すると思っています。
襖四面でひとつながりの画面と捉えると、それをわざわざ断絶するようにど真ん中に雲を入れるのはかなりキテレツ。おそらく芦雪は襖の開け閉てによってそこが分断されることを前提としており、別の空間につながる箇所だと理解したうえで、その雲を描いています。襖を開けて隣の部屋へ移動する人は、一瞬、絵に描かれた雲の中に分け入るような気分になるはず(アナログなシミュレーションが上の写真3枚です)。
同時に、余白としての雲は「画面をつなぐ」役割も持っています。試みに襖を開いてみれば、離れていく中央二面の襖は、縦の雲の存在によって連続性が得られます。さらには龍の頭部と胴体が左右に離れることで、もとの画面よりもその存在を大きく感じさせるオイシイ効果も!
師の応挙には、こういう襖の仕立てを絵に取り込むようなトリッキーな発想はありません。応挙は襖を巨大なガラス窓と見立てるようにして、実空間と齟齬のない絵画空間を作ることを旨としました。そのせいもあって、芦雪のほうはいかにも子供だまし的で、応挙はアートにふさわしい貫禄を備えている、という見方が固定化されてきたように思います。
しかし、人の心は、何らかの”変化”に強く引き寄せられるもの。たとえば、一夜のうちに一変した雪景色を見たとき、山上で霧が晴れて急に視界が開けたとき、繰り返される旋律の中に密やかな転調を感じたとき…。芦雪は、そうした変化に感応する心の動きこそ、「リアル」だと感じていたのではないでしょうか。ここでは襖による画面の変化を取り込んで、一粒で二度おいしい作品に仕上げている、と芦雪ファンの私は強くそう思います。
仮に龍を緻密に描いたとしても、この「開け閉て二刀流」の構図自体は可能でしょう。しかし、絵自体が動くのなら、静的に仕上げるのは逆効果。だったら、ラフでいいじゃないか…。きっと芦雪はそんなふうに全部、分かってやっていた。そして、見る人をアッと驚かせる彼の”芸風”は、あくまで偉大だと思うのです。
調子に乗って言ってしまうと、応挙はやはり絵から発して絵の中にいます。その証拠が『雲龍図屏風』の「雲」の描写。これは応挙以前の絵画表現のリアリティをめいっぱい高めた到達点であることは間違いありません。しかし、現在、飛行機に乗る者からすると、偶然性を味方にした力技による、芦雪の厚い雲のほうが「真」に迫って見えます。
展覧会は4/7まで。一度いらした方も、「ちょっと見方が変わりそうかな?」と感じられたら、またお出かけくださいませ。
(編集B)