まさに日本の宝――エクラ編集部にもファンが多い歌舞伎俳優・坂東玉三郎さん。ここ数年、ますます精力的に、惜しみなく舞台に立っている姿が印象的だ。そんな玉三郎さんが、歌舞伎座「六月大歌舞伎」第三部に出演する。演目は、昭和63年から何度も再演を重ねている『ふるあめりかに袖はぬらさじ』。新劇、歌舞伎、新派でも上演される名作で、数々の名優たちによって上演されてきた。
有吉佐和子先生が杉村春子さんのためにお書きになったものですが、初めて観たときから惹きつけられました。日本の中でも、トップクラスの戯曲だと思います。
有吉先生の洞察力の深さ。世の中を俯瞰する目というのを感じます。しかもそれをあえて劇中で直接的に言うことはしてません。笑いの中で転がっていきながら、日本の有り様の真髄をついているところに、感銘を受けました。幕末のものですが、いまでも全く同じことが言えると思います。男のありよう、女のありようを深く捉え、日本もアメリカも、勤皇も佐幕も、あらゆる人間模様を描きながら、どちらも肯定も否定もしません。人間ってここに生きていて、それだけで雨に濡れちゃうのね…と。表面的に筋が違うようなんだけれど、裏側の魂はつらぬかれ通されている。喜劇なのか悲劇なのか、わからないところで、あれだけ愉しませながら、人間の深層心理を深く描いていきます。笑いながら人生をしみじみ感じさせる戯曲というのを探していますが、なかなかないんです。本当に近代の名作で、素晴らしい作品です。
お園はいろんな人生をみているけれど、笑いにもっていける巧妙さを持っていた女性ですね。杉村先生のお園はもちろんのこと、八重子さんがおやりになったのも観たのですが、素晴らしかった。舞台に出てくるだけで、納得する存在感や雰囲気があり、本当に凄かったです。
ただ私自身が演じる時は、意識することはありません。花柳界が身近にある環境に生まれ、身の回りにそういうお姉さんたちがたくさんいた中で育ったので、芸者の役の解釈ってあまりしたことがないんです。芸者っていうのは、演じている女だから。普段、つまりは生の状況がないんです。それが芸者の基本。
もともとあった歌舞伎を「旧派」と呼び、それに対して、歌舞伎的な様式をもちながら、近代劇をやろうと生まれた演劇を「新派」と呼ぶようになりました。三島由紀夫先生は、歌舞伎を書く一方で、文学座に『鹿鳴館』をお書きになり、それは新派の「八重子十種」となりました。川口松太郎先生や北條秀司先生も、歌舞伎も近代劇も書かれ、有吉先生も、歌舞伎舞踊をお書きになりながら、近代劇、現代劇を書かれました。私の感覚としては、歌舞伎と新派に、あまり垣根はありません。お二人とは昔からご一緒していたので、むしろ新派に移籍したことで共演できなかったのが不思議なくらいです。これが良いきっかけとなり、いつでも一緒に芝居ができるようになれば、と私は思います。
左より、河合雪之丞、坂東玉三郎、喜多村緑郎_
浄化される作品です。心が洗い流され、演じたあとがすっきりする。苦しくて重い幕末の話だけれど、終わったらすっとするんです。 有吉先生の作品には人間愛があるからでしょうか。この作品に限らず、自分が気持ち悪かったり、ナルシスティックなことをしたらお客さまも愉しんでいただけないと思っています。迎合しない程度に、お客さまに愉しんで頂くことしか考えていないです。迎合するかしないかという線は大変難しい。でも迎合したと思ったことは一度もありません。
日本の運命。今も昔も変わらないんじゃないでしょうか。この作品は世情の情報と真実がずれている、ということをしっかり言っている。伝説になって踊らされているけれど、本当の魂ってここにあるのよ、と言っている。そして、国の一番痛いところを、すっと刺している。それを書いているんだからすごいですよね。
自分の若いときの恋心を蘇えらせさせているんじゃないでしょうか。だから亀遊への想いが強いんだと思う。お園も若いときそうだったから、二人を成就させてあげたいって。亀遊の想いを理解して、私もそうだよ、って言ってるんだと。ただ亀遊さんは自害しますが、お園は死ねない。どんなに苦しくても、本音と建前をきちんとわきまえて、廓で商売をしていきます。お園は明日を生きていかなければならないんです。
もうこれが最後かもしれないと思ってやっています。今回の歌舞伎座が最後かもしれないし。もうすぐ出来なくなると思うんです。でも幕を開けるからには、ちゃんとやらないと。
『ふるあめりかに袖はぬらさじ』芸者お園=坂東玉三郎(撮影:岡本隆史)