「劇場に行くたびに小説を書きたい気分になるんです」と語るのは『博士の愛した数式』などで知られる作家・小川洋子さん。最新作『掌に眠る舞台』に収められた8編は、日常と舞台という異界のつなぎ目が多彩で、読み終わったときには不思議な体験をしたような気持ちにさせてくれる。
観劇好きになって、“舞台”に想像力をかき立てるものがあると気づきました
「舞台が好きになったきっかけは、7、8年前に演劇通の編集者さんに誘われて見にいったバレエ。作家は言葉ですべてを表現しなければなりませんが、バレエは無言ということに衝撃を受けたんです。その後文楽やミュージカルを見にいって、小説ではできない言葉の実験が舞台ではいろいろなかたちで行われているんだと思いました」
舞台というと役者に目がいきがちだが、小川さんが気になったのは舞台の裏側や舞台装置といった“その周辺にあるもの”。
「役者さんは私の想像がおよばないところで生きている人じゃないかという気がして(笑)。以前取材で帝国劇場の舞台裏にうかがいましたが、“この人は何をしている人?”と思うような人がいっぱいいたり、舞台や客席とは違う空気が流れていたりしたのが新鮮でした。舞台装置を近くで見たときは意外と質素で驚きましたが、それを舞台に載せて役者さんが動くと魔法がかかる。客席にいる人が絶対触れられない世界ができていくことが私には興味深かったですね」
そんな小川さんの感覚はどのお話からも伝わってくるが、なかでも印象的なのがプログラムにサインをもらうためだけに劇場の楽屋口へ通う女性を描いた「花柄さん」。
「楽屋口で辛抱強く待っているファンのかたたちを目にすると、あまりにもけなげで見捨てておけないような感じがして。正当な報いを受けられないとわかっていても誰かを応援したくなる人間の性(さが)は不思議だし、つくづくいとおしい。本書に登場する人の多くはちょっと変わっていますが、だからといって切り捨てるのではなく、“こういう人もいるんだ”と一瞬でも認めていただければいいなと思っています」
小川さんは阪神タイガースファンとしても有名だが、「何かを応援する気持ちは無意識に飲んでいる栄養ドリンクみたいなもの」という。
「自分のことだけ考えるのはけっこうくたびれるもの。貴重な時間やお金を自分以外のものに使うのは、人間にとって必要なことかもしれません。コロナ禍になって舞台の成立がそもそも奇跡と感じていますが、対照的に文学は安全でしぶといと思うようになりました。考えてみれば、人に魔法をかけてその世界に入ってもらうという意味では演劇と小説は同じ。私が大切にしているのも、“小説の世界に静かに入ってもらえるように書く”ということなんです」
『掌に眠る舞台』
工場の片隅の工具箱の上でペンチやスパナなどを使ってバレエの公演を再現する女の子。帝国劇場での「レ・ミゼラブル」全公演に通いはじめた「私」が出会った劇場に住む「失敗係」の女性。現実と舞台のはざまで生まれた人と風景を描いた幻想的な短編集。9/5発売。集英社 ¥1,815