新潟生まれの私には割となじみの本だった。鈴木牧之(ぼくし)『北越雪譜(せっぷ)』(1837年)。雪国の風物を描いた江戸後期のベストセラーである。木内昇(きうちのぼり)『雪夢往来』はこの本が誕生するまでの、実に40年におよぶ歳月を、越後と江戸を舞台に描いた歴史小説だ。
時は文化年間。主人公の鈴木儀三治(ぎそうじ)は越後塩沢(現・南魚沼市)で商家を営む鈴木家の跡取りだが、俳諧に通じ、牧之なる俳号ももつ文人趣味の人だった。
儀三治にはひそかな夢があった。かつて一度だけ縮(ちぢみ)を売りに江戸を訪れた際、悔しい思いをしたのである。
〈越後は雪深いってぇ話だが、どのくれぇ積もるのだえ〉〈一番積もる時季には、高さが一丈ほどになりましょうか〉。1丈といえば約3メートル。〈おめぇさん、真面目そうな顔をしてとんだ法螺吹きだね〉。それが19歳のときで、以来彼は江戸の人々に読ませたいと土地の奇譚などを書きためてきたのだった。そして9年後、彼は江戸逗留時に書を習った師の沢田東江に草稿を送るのだが……。
さあ、そこからが長かった。
草稿が届いたとき、東江はすでに他界したあとだった。が、息子の東里の機転で原稿は当時の人気作家・山東京伝(さんとうきょうでん)の手に渡った。京伝は興味をもち、さる版元に〈これ、あんたのところで、どうだえ。なかなか面白いぜ〉と持ちかけるも、今と同じで無名の作家に版元は冷たい。それでも先を書き進めるようにという京伝の手紙に儀三治は発奮するが、いろいろあってこの計画は頓挫。
2年後、再び沢田東里に仲介を依頼し、草稿が持ち込まれた先は、やはり人気作家の曲亭(滝沢)馬琴だった。だが馬琴と京伝の仲は険悪で、京伝との経緯を知った馬琴は出版の仲介を断った。
このあたりから儀三治の草稿は迷走に迷走を重ねていくのだ。
地味なテーマなのにワクワクしながら読めるのは、地方の商家の暮らしぶりに加え、江戸の出版事情や人気作家のバックステージがいきいきと描かれているためだろう。とりわけふたりの天才作家、面倒見のいい山東京伝と偏屈で自分本位の曲亭馬琴の対比は秀逸で、本書における馬琴は完全にヒールである。
加えて儀三治の粘り強さ!〈この塩沢の地から出ることがかなわなくとも、世のためになることはできる。雪話が形にならずとも、世に奉仕することで己の存在を遺すこともできる。板行(はんこう)の話が潰えてからの儀三治は、絶えず働くことで、己にそう言い聞かせてきたのだ〉。
結局この本が出版されたのは儀三治が70歳を超えてからだった。最終的に儀三治に手を貸したのは、兄に届いた原稿に最初から注目し、その価値を理解していた京伝の弟の京山である。
東京から上越新幹線を使えば今は2時間足らずの塩沢も、徒歩で三国峠を越える時代には遠かった。『北越雪譜』を読みたくなり、塩沢にも旅したくなる快著。