実に3年ぶり。村上春樹ファン待望の新作『夏帆─The Tale of KAHO─』は、長編では初となる女性が主人公の小説。前作『 街とその不確かな壁 』と、川上未映子が村上春樹の創作の秘密を聞き出すロングインタビュー『みみずくは黄昏に飛びたつ 』もあわせて読んで、ハルキ・ワールドにどっぷりつかってみては。
『夏帆─The Tale of KAHO─』
村上春樹
新潮社 ¥2,860
不思議ワールド全開。武蔵境と浦和を主な舞台とした女の子の冒険譚。作中では夏帆が制作中の絵本も同時進行しており、そっちは森に捨てられた少女が出口を探す物語。自分は母に望まれなかった子供ではないのか、という疑念を抱いている夏帆にとっての「母(シロアリの女王)との戦い」は、母と自分を過去の呪縛から解放し、母との和解を果たすことだと想像されるが、さて……。
3年ぶりの村上春樹の新作はハルキ・ワールド全開!
村上春樹の新作『夏帆─The Tale of KAHO─』は『街とその不確かな壁』以来3年ぶりとなるファン待望の長編である。今度の主人公は女性。長編では初めてのことらしい。
〈「これまでいろんな女性とデートのようなことをしてきたが」とその男は言った。「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」〉。テキストはこんな暴言から始まるが、ここはただの導入部。台詞にもさしたる意味はない。
話題の主人公、夏帆は26歳。絵本作家である。売れっ子ではないが、依頼を受けて描くイラストの仕事も含めれば、生活していく程度の収入はある。
父は浦和(さいたま市)に住む小児科の開業医。母は専業主婦。夏帆はひとりっ子だが、母との関係はあまりよくない。美大を出て絵本作家になった現在は埼玉県境に近い東京都足立区花畑(はなはた:実在の地名である)でひとり暮らしをしている。
だがある日、彼女は夢に出てきたありくいに命じられるのだ。
〈いいですか、あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに。そこがあなたのいるべき場所です〉
なぜありくい? なぜ武蔵境? と思いながらも、いわれたとおり、武蔵境駅からバスで15分ほどの古い平屋に越した夏帆。果たしてその家の床下には、ありくい(ブラジルのジャングルから来たオオアリクイ)の夫婦が住んでいた。
武蔵境には異世界に通じる通路の出入口があるらしく、夏帆はそこから不思議な事件に巻き込まれていく。
村上春樹の読者なら「ものすごく村上春樹っぽい」と思うのではないだろうか。日常と非日常が交錯する世界観、突然誰かの命で主人公が事件に巻き込まれる展開、人の言葉を話す謎めいた動物、異世界と行き来する通路の出入口……。ハルキ・ワールド全開である。
と同時に『夏帆』はちょっと「童話っぽい小説」でもある。日常と非日常のうち日常の含有率が低いため、読み心地はファンタジーに近いのだ。
物語の最も重要なプロットは「母と娘の対決」である。夏帆の母は「シロアリの女王」に体を乗っ取られ、人格が変わっていたのだった。母の内部に巣食うシロアリの女王だけを殺して、実際の母は救い出す。この困難な任務を負った夏帆が包丁を手に浦和の実家に乗り込んで母(の中のシロアリの女王)と対峙する。ここがクライマックスだ。
それは「母殺し」であり、同時に「母の救済」の物語でもあるのだが、主人公が悪と戦い、善を救うというすじ立ては、『桃太郎』から『スター・ウォーズ』にいたるまで、繰り返し描かれてきた古典的な冒険物語と同じである。まるで少女が魔女と戦うおとぎ話のよう。
もちろんそこは現代文学だから、いかようにも深読みはできる。ハルキ・ワールドにどっぷりつかるも、深読みや裏読みを楽しむも、どっちもありだ。
あわせて読みたい!
『街とその不確かな壁』
村上春樹
新潮文庫
上¥990・下¥935
17歳と16歳で出会った「ぼく」と「きみ」。「きみ」はしかし、「本当の私は高い壁で囲まれた遠い街にいる」と告げ、姿を消した。40代になった「私」は本当の「君」に会うため壁の中の街に入ろうと決意する。2つの世界を描きつづけてきた作者の集大成かと話題になった大長編。
『みみずくは黄昏に飛びたつ』
川上未映子 村上春樹
新潮文庫
¥935
川上未映子が村上春樹の創作の秘密を聞き出しまくったロングインタビュー。作家の政治的な発言について、村上作品の女性像について、同じモチーフが繰り返されることについて、といった鋭い質問を真正面から浴びせる川上と、簡単にしっぽをつかませない村上のやりとりがスリリング。
文芸評論家・斎藤美奈子
さいとう みなこ●文芸評論家。編集者を経て’94年『妊娠小説』でデビュー。その後、新聞や雑誌での文芸評論や書評などを執筆。『出世と恋愛』『あなたの代わりに読みました』『ラスト1行でわかる名作300選』ほか著書多数。近著に『絶望はしてません ポスト安倍時代を読む』(筑摩書房)。
photography:Ryosuke Harada ※エクラ2026年11月号掲載