【1hour ドライヴリポート】晩夏に渋沢栄一の生地を訪ねて(後編)

コロナ禍のお出かけ、我が家の鉄則は「マイカー、近距離、短時間」。 今回は、日本経済の父・渋沢栄一の故郷探訪記(後編)です。
 
 

コロナ禍の【1hour ドライヴ】

こんにちは。とげまる子です。

長引くコロナ禍、全国19都道府県で緊急事態宣言が延長されています。
私が住む埼玉県もそのひとつ。
不要不急の外出・移動の自粛や、混雑する場所・時間を避けた行動が求められています。

やむを得ず必要なお出かけ時、我が家の鉄則は「マイカー、近距離、短時間」。
片道1時間の「1hour ドライヴ」をモットーに、真っ直ぐ目的地に向かい、用事を済ませたら速やかに帰途につくよう心がけています。


血洗島の名前の由来

「日本資本主義の父」と称される明治~大正の大実業家、渋沢栄一。

三男が現社の課題で郷土の偉人について調べることとなり、晩夏に渋沢栄一の故郷・埼玉県深谷市を訪れました。

後編の舞台は、渋沢栄一の生誕地である、深谷市血洗島。

前編で訪れた渋沢栄一記念館から徒歩数分の近距離ですが、記念館がある町名は下手計なので、血洗島には初めて足を踏み入れることになります。


何はともあれ、やっぱり気になるこの地名。

何たって「血洗島」ですよ。。。
一度聞いたら忘れられません。

このおどろおどろしい地名について、その由来を三男が調べていました。
それによると、諸説があるものの定説は無いそうです。

ひとつは、治水が行き届いていなかった当時、利根川に近いこの地は洪水による氾濫に度々見舞われ、地が洗われた「地洗い」、地が荒れた「地荒い」と呼ばれたのが発祥とする歴史説。

また、渋沢栄一自身が著書で述べている、「赤城の山霊が、他の山霊と闘って片腕を挫かれた。その傷口をこの地で洗った」とする民俗学説。

他にも説はあるようですが、いずれにせよ「字面からイメージするほど怖いものじゃなかった」とのこと。

なあんだ、横溝正史の世界じゃないのか。
(。。。オイオイ)


安心したところで、埼玉県指定旧跡・渋沢栄一生地、旧渋沢邸「中の家」に到着です。

 

旧渋沢邸「中の家」

「中の家」と書いて、読み方は「なかんち」です。

血洗島のこの一帯は渋沢一族の土地であり、分家して数々の家を興しました。
本家は「東の家」、分家は「中の家」の他に「新屋敷」「古新宅」「尾高家」等があり、呼び名で建築順や位置、婚家筋であることなどを示していたようです。


記念館と同様、「中の家」も広い立派な駐車場が整備されていました。

そしてやはり、駐車場、観覧料、共に無料。
深谷市のご厚意に感謝し、ありがたく恩恵にあずかります。

正門と 幸田露伴「青淵翁生誕之地」碑/中の家(埼玉県深谷市)
正門と 幸田露伴「青淵翁生誕之地」碑/中の家(埼玉県深谷市)
中の家の正門です。武家屋敷と見紛うばかりの立派な造りです。
 
門の前に「青淵翁生誕之地」と刻まれた石碑がありました。
明治の文豪・幸田露伴の書を元に、昭和になってから建立されたものだそうです。
 
風格漂う重厚な門構え。ぐるりと敷地を護り巡るいかつい塀。
圧が尋常じゃなく、くぐる瞬間は背筋がシャンと伸びた心地がしました。
 
「若き日の栄一」像と主屋/中の家
「若き日の栄一」像と主屋/中の家
正門を入って左手に、渋沢栄一の銅像が建っています。
台座には「若き日の栄一」と刻まれていました。
明治元年(1868年)、徳川昭武(民部公子)のお伴でパリに出立した際の栄一の姿です。
確かにドラマでもこのようないで立ちだった記憶が。

ここまで老成した栄一の姿ばかり見ていたので、若く溌溂とした姿が新鮮です。

そして、青銅の栄一くん(若いので)が懐かしげに見つめる先にある建屋が、旧渋沢邸の主屋です。


切妻屋根の勾配が美しいこの木造住宅は、養蚕農家らしく、2階に設えた養蚕場に十分な採光と通風を確保するための独特の建築様式が用いられています。

2段になった屋根の通気口部や、懐古感漂う窓の木細工(組子と言います)など、意匠のバランスがとにかく素晴らしい。
質素な作業所兼用農家でありながら、凛として高貴なこのたたずまいはお見事です。
夫婦ともに建築士(という名の建物オタク)な私たち、無言でしばし見とれてしまいました。


実はこの主屋は栄一の生まれ育った家ではなく、後に妹夫婦が建造した建物なんだそう。
それゆえ、中の家は生家としてではなく、「渋沢栄一生地」として埼玉県指定旧跡に認定されています。
この「家」ではなく、この「地」で生まれ育ちましたよ、ってことですね。

主屋前にて/中の家
主屋前にて/中の家
明治28年(1895)上棟の古い古い建物ですが、深谷市の管理下で大切に手入れされ、庭も掃き清められ、清々しいです。

以前は建物内部の見学もできたようですが、感染症対策として、今は外観の見学のみ許可されています。
残念ですが仕方ないですね。

せめて障子が開け放たれた座敷だけでも、と中を覗いたら。。。

あら、こちらでもお会いできるとは!
 
渋沢栄一アンドロイド/中の家
渋沢栄一アンドロイド/中の家
渋沢栄一アンドロイド2号です。
こちらは紋付袴の座姿。リアルです。

80歳頃をイメージして制作されているそうで、なるほど白髪といい皺といい、記念館のノブさん(失礼)と比べてもだいぶお爺ちゃま。

ノブさんじゃなくなってる、と三男。
(。。。いや、そもそも無関係だから)


2号翁がいるこの上座敷は、主屋の最奥にある上等な客間です。
普段は使用されず、栄一が帰郷した際に泊まる部屋でした。

いきなりですが、ここで問題です。
2階建の主屋ですが、この上座敷にだけは上階を設けていません。
さて、それはなぜでしょうか?

ヒント、2階が何に使われていたかを考えてみてね。


そう、養蚕の仕事場でした。早朝から騒がしく作業する場所です。
妹夫婦は、多忙な栄一が帰郷した際、2階の物音に煩わされず寛げるようにと願って、この間取りに決定したそうです。
なんて温かな心遣いでしょう。
そして栄一が一族の誉れだったことが良く分かる、素敵なエピソードですね。


だからかな。。。くつろいでる感が半端ないんですよね2号翁。
大切にされた場所に座して、すこぶる上機嫌なご様子。
おい、そこのきみ、とか話しかけてきそうな雰囲気です。

アンドロイド2号の正式公開は、中の家の補強改修工事後の令和5年以降になるとのことでした。
今年の12月26日までプレ公開中とのことですので、早く見たい方は年内がおすすめですよ。


続いて、主屋の前の池、庭園を見て、竹林へと敷地内を巡っていきます。

主屋前の日本庭園にて/中の家
主屋前の日本庭園にて/中の家
中の家は、中央に配置された主屋を囲むようにして、副屋と4つの土蔵、正門、東門が建っています。北武蔵地方の養蚕農家屋敷における、伝統的かつ典型的な建築の形式です。

竹を見て歩くうち、ふと既視感を覚えました。

私が18歳まで暮らした実家も、主屋と副屋、土蔵、竹林や池がある古びた日本家屋でした。
武蔵国(埼玉)ではなく常陸国(茨城)、養蚕農家ではなく造り酒屋でしたが、やはり一族で代々同じ地区に住み、生業の他にも政治や干拓事業の公共事業等で地元と深い関わりを築いていました。
事情により父の代で土地と家屋の全てを手放すこととなりましたが、長じて、土間や縁側のある日本家屋の建築様式に惹かれ、建築士免許を取るに至ったのも、元はと言えばあの古い実家での18年があったからでしょう。

青竹のにおいに、一気に懐かしさがこみ上げてきました。
よみがえってくる幼い日の思い出もありました。

古い家には、忘れていた大切なものを思い起こさせてくれる力がありますね。
 
敷地内の竹林/中の家
敷地内の竹林/中の家
竹林を過ぎると、建物が見えてきました。
主屋裏手にある道具蔵と、1階に奥座敷を設えた2階建の宝蔵。どちらも比較的小さな土蔵です。

裏庭の整地された一角に、渋沢栄一の父(渋沢市郎右衛門)、母(渋沢えい)、養子である平九郎の名が刻まれた、3つの碑が建つ場所がありました。
元々は東京の渋沢家墓所にあったものを、平成になって移築したようです。
木漏れ日を浴びて、ひときわ厳かな空気に包まれているかのような一角でした。

土蔵(米蔵)にて/中の家
土蔵(米蔵)にて/中の家
写真のここは、主屋の並びに位置する大きな白壁の蔵。
内部に落とし板が使われていることから、米を貯蔵していたと考えられています。

また、この右横の一番大きな蔵は、大谷石を積んだ半地下室を設け、藍玉の製造と貯蔵をする場所として使用されていました。

暑い日でしたが、蔵の中に一歩入るとひんやりとして涼しい。
漆喰や天然石等、湿気も熱もこもらない自然建材を用いて作られた土蔵は、エコな冷蔵庫です。
貯蔵物と共に、先人の知恵もぎっしり詰まった場所なのです。

見学を終えて

ここで、気付くと既に1時間が経過していました。

緊急事態宣言下ということで、深谷市の各施設では、緩やかながら自主性に任せる形での人数&時間制限が呼びかけられていました。
それに従い、今回はここで見学を終えることに。


本当はこの後、正門の外・塀の並びにある副屋を見ようと思っていました。副屋はお店と呼ばれ、藍玉の取引や農協事務所として使われていたこともある場所です。
外塀に沿って外周も巡ってみたかったし、何より主屋内部の見学が出来なかったことは心残りでした。

必ず再訪しようねと口々に誓い合って、中の家を後にしました。


帰り道、良いレポートが書けそう?と三男に問うと、まあね、とどこか歯切れが悪い。

「一通り調べられたとは思う。でも、知りたいことも増えた」

どうやら三男は、栄一が倒幕の尊王攘夷派から180度方向転換して幕臣になった経緯と事情が気になって仕方ないようです。


農民から武士。武士から役人。役人から実業家。
転身に次ぐ転身で経済界のトップに躍り出た栄一は、賢くしたたかで、「先見の明があった人。時代を正しく読み取る計算高い人」。
だからこそ「志より立身出世を選んだってことだよ。後でもっともらしく言い訳してるけど、そんな必要はないよ。だってビッグチャンスじゃん、俺も絶対そうする」

三男、意外に野心家でした。
偉人から処世術まで学び取ったようです。
(。。。やるなぁ)


16歳という、将来を考え始めた柔らかな時期に、渋沢栄一という稀代の大実業家を知ったことは、彼の今後にどう影響していくのでしょうか。
楽しみに見守ることとしましょう。


「渋沢栄一の生地を訪ねて」と題し、渋沢栄一記念館 と 中の家 について、前後編に分けて書いてきた 1hour ドライヴリポート は、以上です。
読みやすさを心がけて書いたつもりですが、長くなったこともあり、読み辛い部分があったらごめんなさい。
また、マスクを外した画像がありますが、いずれも半径3m以内に人がいないことを確認した上で、会話をせずに撮影しています。ご理解いただければ幸いです。


言うまでもなく、今回の渋沢栄一生地探訪は序の口です。
深谷市には、まだまだ貴重な資料や史跡、歴史的建造物等が、多数存在しています。
大河ドラマ「青天を衝け」も、幕末の混乱が収束したこれからが佳境。吉沢亮さん演じる栄一が、生来の経営手腕を発揮し始め、大実業家の片鱗を見せ始めます。
画面での栄一の活躍を楽しみつつ、史実における新たな学びと感動を求めて、今後も何度でも深谷市を訪れたいと思いました。

最後に、資料館や旧跡名跡の多くを惜しみなく無料で公開し、学びの機会を提供して下さる深谷市に、改めて心から謝意を申し上げます。
有意義な時間でした。ありがとうございました。

とげまる子

とげまる子

埼玉県在住。画家。家族は夫と息子3人。趣味は音楽(スピッツ最愛です)、野球観戦(ホークス命です)、料理(作るのも食べるのも)。心身のアンチエイジングを大切に、ゆっくりと丁寧な暮らしを心がけています。

Instagram:yukiko_ohchi

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