森英恵、生誕100年記念の展覧会が開催中!元祖「ヴァイタル・タイプ」の創作の原点とは?

森英恵といえば、蝶々。では、なぜ彼女が自分のトレードマークを蝶にしたのか、ご存じだろうか。創作の原点である故郷の里山に飛んでいた蝶々に、日本女性の繊細な美しさを重ねて見た。NYで見たオペラの哀れな『蝶々夫人』像にショックを受け、「ひとりの日本の女として、日本や日本女性のイメージを絶対に変えてみせる」と決意し、蝶々をシンボルに世界へ飛び出した……。美しく華麗なファッションと、その裏にある熱い思い、強い意志。戦後の日本女性のリーダーでもあった人の、生誕100年を記念する大規模展覧会が9月から開催中。改めて今知りたい、「森英恵」という生き方。

ヴァイタル・タイプとは

いきいきとして、さっぱりとすがすがしく、 仕事に暮らしに、自分らしく取り組む女性 ――森さんが『装苑』で提唱した女性像。

森 英恵
ニューヨークのショー会場で、1970年代半ば(写真提供 森英恵事務所)

始まりは習い事。新婚生活が暇で、隣町の洋裁学校へ

“あすは日曜日、のんびりできると思うと口笛を吹きたくなる。土曜の夜って、なんて素敵なんだろう”

これは20代後半の森英恵さんが、当時の女性誌につづった日記の中の一文だ。こんな文章もある。

“仕事に入る前に、新宿の店の近くで、パンや肉や果物などの買い物をすませる。「変わったジャムが食べたい」という子どもたちのために桃のジャムを買い、チーズの好きな夫には、スイス製のを切ってもらう”

やりがいのある仕事をもち、家に帰れば母であり妻である人の、いきいきとはずんだ気持ちが伝わってくる。

若いころから晩年にいたるまで、雑誌のインタビューや著書で自身を語ることを厭(いと)わなかった人だ。国際舞台で活躍する厳しさ、つらさ、おもしろさや家族への思い、時には本音も、包み隠さぬ言葉で彼女は紙上に残してくれている。

デザイナーになったのは、「習い事」がきっかけだった。1946年に東京女子大学を卒業後、すぐに結婚したが、専業主婦の暮らしは退屈すぎる。当時住んでいた町の隣の駅、吉祥寺にあるドレスメーカー女学院に通いはじめた。「家事だけのために10本の指はいらなかった。家族の服くらい自分でつくりたい。そんな軽い動機で、新婚3カ月目に洋裁学校に入ったんです」

自分を変えたいと思うとき、習い事をしてみるのは私たちの常套手段。森さんも始まりはそうだった。もともと、絵を描くことなどが好きなアーティスト志向。洋裁の勉強を始めると「これがとてもおもしろいんですね。まもなく妊娠しましたが、それでも夢中で続け、結局、卒業するまで2年間、通いました」。

学校を出ると、服づくりへの情熱が冷めやらず、結婚時に実家が持たせてくれた貯金と、夫の援助を元手に新宿に洋装店「ひよしや」を開店。彼女の服はまたたく間に大人気となった。お手伝いさんに細かく指示を出してふたりの息子の世話を頼み、森さんは“女ナポレオン”の異名をとるほどに睡眠時間を削って働いた。

仕事になんとかキリをつけて、幼稚園のお迎えに行くと、みんなが帰った誰もいない園庭で、自分の息子ひとりが遊ぶ寂しい情景をたびたび目にした。「かわいそうだと思いました。でもそのころはまず人生の基盤をつくることに無我夢中でね。結婚と出産をすませて、とにかく20代の内に、自分の仕事に取り組む環境とライフスタイルをつくってしまいたかった」

そんな森さんが「デザイナーをやめてしまおうか」と思い悩んだことがある。日本ファッション・エディターズ・クラブ賞を受賞した34歳のころだ。

森英恵《ウェディングドレス「お嫁さん」》(部分)、 HANAE MORI HAUTE COUTURE、 2003年春夏 撮影:小川真輝
森英恵《ウェディングドレス「お嫁さん」》(部分)、HANAE MORI HAUTE COUTURE、2003年春夏 撮影:小川真輝(写真提供 森英恵事務所)

自分のために、パリでシャネルスーツを注文した日

あまりにもハードな生活。それに自分がつくり出すモードと、当時の日本人のライフスタイルが合わない矛盾にも悩んでいた。“こどもたちも幼かったし、こんな激しいくらしはもうたくさんだといった気分で、ちょうどよい機会だからデザイナーをやめてしまいたいと本気で考えた”と著書『あしたのデザイン』(新潮文庫)に書いている。

このときは懇意にしていた洋裁雑誌の編集長に「疲れているからだよ。仕事から離れてパリに行ってらっしゃい。それから決めればいい」と助言され、思いきってパリへ飛んだ。

1カ月間、フランス語の学校へ通い、午後はひとりカフェでお茶を飲むゆったりとした日々。オートクチュールのショーをいくつか見て、ココ・シャネルの服を目前にした森さんは「人の服ばかりつくってきたので自分の服を仕立ててもらいましょう」とシャネルスーツをオーダーすることに。

シャネルのサロンへ行くと、ココ本人やスタッフの目に、森さんのまっすぐな黒い髪がひときわ美しく映ったようだ。それで黒髪に映える鮮やかなオレンジ色の布地をすすめられたが、1ドル360円の時代に数千ドルもする高価な服で、さすがに冒険することはできない。ベージュの地に、黒とオレンジと抹茶グリーンのネップが飛んだツイード地を彼女は選んだ。

明日はパリを離れるという日、白い大きな布張りに「CHANEL」と黒で押した箱がホテルに届いた。早速着てみて、森さんの心が変わった。スーツにはデザイナーの確固たる哲学が詰まっていた。

“女を知り尽くした服だと思った。(中略)鏡のなかの自分を見ながら、ゴムで結わえピンで止めた長い髪を、「東京に帰ったら、切ろう」と思った。パリをたつ頃には、この仕事を「面白そうだ、やっていこう」と考えるようになっていた”(岩波新書 森英恵『ファッション─蝶は国境をこえる─)より。

『生誕100年/森英恵/ヴァイタル・タイプ』

『生誕100年/ 森英恵/ヴァイタル・タイプ』

生誕100周年を記念した展示が
故郷、島根で開催する没後初となる大規模展覧会。映画の衣装、オートクチュールのドレスのほか、写真や映像などを含め約400点を通して、森英恵の生き方とものづくりの哲学を紐解く。「働く女性を応援してきた、森英恵のつくる服の質のよさに注目してほしい。間近に見られる貴重な機会です」と学芸員の廣田理紗さん。メトロポリタン美術館収蔵のドレスも特別展示。

『生誕100年/ 森英恵/ヴァイタル・タイプ』

Data
島根県益田市有明町515
開催期間/~12月1日
開館時間/9:30~18:00(最終入場は17:30)
定休日 火曜 観覧料/当日一般¥1,300
アクセス/東京からは萩・石見空港からがおすすめ。東京・羽田空港から萩・石見空港までは約90分、空港から美術館がある益田市内まで車で約10分と、アクセスがいい。一日2便ある。

島根県立石見美術館(島根県芸術文化センター内)

島根県立石見美術館(島根県芸術文化センター内)

屋根も壁面も、地場産の石州瓦で覆った赤茶色の美しい建物。メンテナンスフリーなガラス質の表面で、建築家・内藤廣いわく「数百年はこのままの状態を保つ」。美術館は大小4つの展示室をもち、スケールの大きな企画展を開催。美術館創設の準備段階から森英恵にアドバイスを仰ぎ、ファッションのコレクションに力を入れるほか、職員の制服も森英恵がデザインしている。

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