田んぼと住宅地の境目の、川といっていいくらい幅広な水路の脇にあったものです。子どもに水難の危険性を伝えたいのでしょう、それはわかります。
しかし、なぜ「危ない!」「キケン!」ではないのでしょう? 「用水」と分析するなんて、ちょっと冷静すぎやしないだろうか?
妙にひっかかって、帰りの新幹線の中でひねり出したのは以下の3案。
(1)少年は「近所のドブ川」と馬鹿にしていたが、いざ落ちてみると実に清冽で、澱んでいたのは自らの心だと思い至った。そんな自分が落ちたことでお米や野菜のための水を汚してしまったという悟りにも似た痛切な叫び
(2)色んな水場に落ちた経験があるのに、目の前の流れに対してどうにも判断がつかない。そしてそんな自分が許せない。今回も落ちてみることでこれは用水路だと確信、またひとつ成長できた(ただし泳げない)
(3)音楽の授業で『少年時代』を習った日。サングラスをかけていない井上陽水の素顔ってどんなだろう?と悩みながら下校していたらうっかり転落してしまい、「(こっちは)用水だ!」と自分にツッコミを入れている
むりやり変人設定にせざるを得ませんが、共通するのは何かしら「後悔」を読み取っているところでしょうか。「用水」という言葉の具体性がそうさせるのかもしれません。
この謎について、石川県、富山県の方からご親切にもインスタグラムでコメントを頂戴しましたので、答え合わせができました。ありがとうございます。
米どころである両県では、用水路というものはコンクリート造りで掴まるところがなく、しかも流れが急で深いため、そこに落ちたら自力で這い上がるのはまず困難なのだと、大人から教え込まれるのだそうです。その前提があっての「用水だ!」ですから、やらかしたという後悔なんてものではありません。この子は死の恐怖に襲われながら、警告してくれた親や先生の顔をも思い浮かべているということになります。
一見、ポップな雰囲気を漂わせていますが、実はとても怖い看板だったわけですね…。ひい。
さらに、いただいたコメントから、「用水」が「用水路」を意味しているということを新たに学びました。「豊川用水」などの大きい呼称はなじみがありましたが、細かな末端も用水と呼ぶのですね。そのことが当初の疑問をややこしくしていたように思います。
おかげさまで、ふたつ賢くなりました! 危険はしっかりかえりみつつ、他の用水くんとの出会いも楽しみたいです。
(編集B)