職場にいや気がさしたとき、あなたならどうします? 仮病を使って欠勤するか、いっそ転職を考えるか。でなきゃ失踪!? そのくらいですよね。
八木詠美『空芯手帳』の語り手「私」こと柴田は34歳。紙管専門メーカーに勤める会社員である。紙管とはラップやガムテープなんかの中心の、あの芯のこと。大きい紙管は資材の芯になる。
柴田は自分の職場にウンザリしていた。むだな会議に無意味な資料の作成。これといった仕事もないのに、だらだらと続く残業。おまけに生産管理と称する部には柴田しか女性がおらず、コーヒーをいれたり掃除をしたりの雑用はすべて彼女に回ってくる。
そんな柴田が妊娠した。すると急に職場は居心地がよくなった。男たちは気を使い、無理はするな
といってくれた。体調が安定するまで定時に帰りたいといったらすんなり認められた。時間にゆとりができたので、スーパーでゆっくり買い物をし、料理に凝ったりバスタイムに時間をかけたり、夜も楽しく過ごせるようになった。問題はただひとつ、彼女の妊娠は出来心によるウソだった!
商談のあとのカップを誰も片づけないのにキレて、つい課長にいったのだ。〈今日、代わってもらえませんか。片付け〉〈今妊娠していて。コーヒーのにおい、すごくつわりにくるんです〉。
おいおいおい、そんなウソ、絶対バレるに決まってる、と思うじゃない? ところが柴田は悪びれも
せず偽装妊婦生活を楽しみ、マタニティ用のエアロビクスにまで通いはじめるのだ。彼女が独身であることも職場の男たちをビビらせた。誰にも「おめでとう」といわれなかったかわりに、よけいな詮索もされずにすんだ。
この大胆不敵さ。病欠も転職も敵にダメージは与えないけど、妊娠は周囲を巻き込む。柴田の偽装
妊娠は男性社会への復讐ともいえる。『空芯手帳』とはつまり、母子手帳のパロディなのよね。
母子手帳アプリで胎児の成長過程を調べ、むやみに食欲がわいて体重が増え、おなかに詰め物をし
て出勤したりエアロビに通ったりしているうちに、自分でもウソとホントの境目がなくなり……。
クリスマスの夜、彼女はつぶやく。〈きっと大変だったよね。身に覚えがないのに妊娠して〉〈周りは結構びっくりしたんじゃない? ただの不倫じゃないかと思われたり。婚約していた羊飼い、あれ大工だっけ、ヨセフか。ヨセフも怒ったりしなかった?〉。
中心が空っぽの紙管メーカーに勤めてるっていうところも人を食っている。津村記久子や今村夏子
を輩出した太宰治賞の昨年の受賞作。さあ産休に突入した柴田は無事「出産」にこぎつけるのか。ハラハラさせるが、結末は爽快。