ビフテキと民藝と私。

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柳宗悦没後60年記念展『民芸の100年』が東京国立近代美術館で始まりました。会期は長く、2022年の2/13までです(会期中、一部展示替えあり)。かなりの展示数&情報量ですので、『エクラ』12月号の記事も予習用にお役立てください。ぶっつけ本番ですと、滞在は2時間を超えるかもしれません。"読むように見ていく"タイプの展覧会ですので、気合を入れてお出かけください。

個人的な話になりますが、民藝は「近くて遠い存在」だと思ってきました。'80年代生まれでも親しみは感じているけれど、ひと時代前のものというイメージです。

その一因は、小さいころに雨の四条河原町で目にした「ビフテキのスエヒロ」のネオンの記憶。棟方志功の絵とビフテキがしっかり結びつき、「ステーキをビフテキと呼ぶ人たちが好きなのが民藝なのだな」と思ったものでした。


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頭の悪い子供の思い込みに過ぎないものの、民藝の"各論"を語ろうというときに、ジェネレーションギャップは無視できません。たとえばこちらの汽車土瓶。戦前に静岡駅でお茶入り5銭で売られていたもので、「お茶は静岡 山は冨士」のキャッチフレーズが書かれています(※湯呑は逸失、弦は現代のもの)。ろくろ引きで絵付けも上々、これほどのものが使い捨て扱いだったことに驚きます。

さて、この土瓶は民藝なのか、はたまた民藝ではないのか? 

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分かりよくするために同じ信楽産の汽車土瓶を並べてみました。下右は戦後の機械ろくろ製。型を使うぶん、見た目がキッチュです。上のものは、下左と同じ手回しろくろ成形の器胎で、「旅乃友」の字がやや拙い。その点、緑と白の釉薬を打った富士山の絵があり、字も達者な左の土瓶は、今見れば愛惜すべき立派な手仕事で、民藝の資格十分でしょう。

しかしその当時、民藝関係者がこの汽車土瓶を特別視した形跡はなさそうです。むしろ「民芸の生き神様という格をもっている」と評したのは、昭和5年に『星岡』誌上で民藝への口汚い批判を展開した北大路魯山人でした。

それとて手放しで誉めているわけではないので、当時の目利きたちにとって、この汽車土瓶は決定打となる美しさを欠いていたのでしょう。時代を経てもモノ自体は変わらないけれど、"見る側"が変化していることが感じられる例だと思います。

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もちろんそれは、社会の変化を反映してのこと。昭和初期ならまだ幕末~明治のいい土瓶を入手できたので、柳たちはそちらに目を向けていました。今の私たちは手仕事に飢えていて、目が甘くなりがちということもあるでしょう。また、時代を経るにつれ、手仕事の衰退は続く一方、機械生産の工業製品の醜悪さはいくぶん薄まっていきます。そして自然から離れた都市生活者には、工業製品であっても木材が使われていれば民藝寄りに映ったりするもの。たとえばアアルトの椅子などは民藝の部類に入れてもいいんじゃないか、というように。「用即美」を重視する場合は、なおさらです。

そうしたいくつものファクターが絡んで、民藝か否かの線引きの難易度は上がる一方。突飛なところでは「新幹線は民藝か?」といった議論が持ち上がったこともありました。

そんなこんなで、個人的には柳たちが作り上げた民藝という概念をいかに"継承"して行くかという点に興味があったのですが、「民藝の100年」を謳う展覧会は、1970年代でぷつりと切れていました。民藝とビフテキが結びついたままの私は、そこからの50年、"初期メンバー亡き後の民藝"について詳しく知りたかった…、とも思うのです。
(編集B)

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