地方都市を舞台にした小説はなべておもしろい。土地の風習やお国言葉を含む地域の多様性そのものが興味深く、地域性が深掘りされればされるほどテンションが上がるのはなぜ?
絲山秋子『まっとうな人生』は『逃亡くそたわけ』(2005年)の17年ぶりの続編である。
語り手の「あたし」こと花ちゃん(花田しずか)と、名古屋生まれのなごやん(蓬田司)。若いふたりが福岡の病院を抜け出して鹿児島までを走り抜ける『逃亡くそたわけ』は、九州を舞台にした爽快なロードノベルだった。
それから十数年後、花ちゃんとなごやんは富山にいた。30代後半になったふたりはそれぞれに家庭をもち、花ちゃんは夫の実家が、なごやんは妻の実家がある富山に移住してきたのだった。農機具の会社に勤める夫と10歳になる娘の佳音と花ちゃんは富山市内に住み、なごやんは高岡市の妻の実家でパソコン教室を開いている。偶然再会したふたりは家族ぐるみの付き合いを始めるが……。
危なっかしかった若者がすっかり大人になり、ちゃんとしたママやパパをやっている。それだけでも成長したわが子を見るような胸キュン感があるのだが、故郷を離れ、習慣の異なる新天地で暮らす彼女の心境がまた身にしみる。
〈よそ者のことを、富山では「たびのひと」と言う。何十年住んでいても出身が違うだけでそう言う〉。生まれ育った福岡を彼女は〈今はもう滅びてしまった遠い国のように感じるときがあって、心に冷たい金属をきゅうっと押し当てられたような気分になる〉。それは夫とも娘とも共有できない感覚だ。なにしろ〈あたしに富山弁が話せないように、佳音は博多弁が話せない〉のだ。
それでも彼女はまあまあ元気に暮らしており、時には黒部市にある夫の実家へも行き来して、富山の生活を楽しんでいた。
ところがそこに、予期せぬ事態が勃発した。コロナ禍である。
富山にはウイルスがまだ到達していないころから、彼女の頭の中では警笛が鳴った。〈なりふりかまわず家族を守れ!〉〈食べ物を確保せよ!〉〈清潔を保て!〉。
コロナ第1波当時の緊張感と不安が蘇る。コロナ禍はそれまでは意識しなかった地域の排他性もあぶり出す。県外ナンバーの車を嫌う妻の言葉になごやんも傷ついていた。〈俺だって「たびのひと」だもの。そういうところから差別って始まるじゃん〉。
2019年4月から’21年10月までの2年半にわたる物語。
日本中の家族が体験したであろう「あのころ」の気分をなぞりつつ、北陸の一都市への関心もかきたてる佳編。男女間の友情を描かせたらピカイチの絲山秋子にしか書けない世界である。