廈門と書いてアモイと読む。中国・福建省の南部に位置するこの町(市)は海をはさんで台湾のちょうど対岸に位置し、写真をちらっと見ただけでも旅気分をそそられる美しい町だ。
昨年の小説すばる新人賞を受賞した青波杏のデビュー作『楊花の歌』は主に1941年の廈門を舞台にした物語である。時は盧溝橋事件(’37年)に端を発する日中戦争の真っただ中。上海、南京に続き、廈門も陥落して、当時は日本の占領下にあった。
主人公のリリーは廈門のカフェー朝日倶楽部の女給である。リリーというのは源氏名で、もともとは東京の裕福な家庭に生まれたお嬢さんだったが、広島、台湾と移り住む過程で家が没落。18歳で大阪・松島の遊廓に入るも、のちに逃亡。海を渡って上海、香港と渡り歩き、廈門に流れ着いたのだ。
リリーには愛する人がいた。通称ヤンファ。台湾の少数民族の出で、赤い唇と琥珀色の目をもった美しい女性である。子供のころ、神戸で暮らしたこともあるというヤンファの日本語は関西弁だ。
こんな人物設定だけでも十分ドラマティックだけれど、それだけではない。リリーのもうひとつの顔は諜報員、つまりスパイなのである。彼女の仕事はカフェーで得た情報を抗日活動家の佐藤こと楊文里に伝えることで、目下の任務は、店の客で新東亜タイムズのやり手記者である岸なる人物(実は廈門周辺の地下活動を探るために送り込まれた日本軍のエリート諜報員)の暗殺計画。その実行犯として楊に雇われたヤンファと廈門で出会い、互いの素性も本名も知らぬまま恋に落ちたのだ。
〈「眉間に皺寄っとるで。あんまり深刻にとらえんでもええ。楊に報告しとくし、うちも今夜は一緒におるわ」/その、今夜はいる、という一言で、不安よりもヤンファと過ごす時間への期待が強くなるあたしは、まったく十代の少女みたいだ。それにしても、ここまで強くひとに惹きつけられたことがこれまであっただろうか〉
ま、メロメロである。だがリリーにはヤンファにいえない秘密があった。万一岸の暗殺に失敗した場合、ヤンファを殺せと楊に命じられていたのである。それを知ってか知らでかヤンファもいう。
〈覚えとき。スパイは仕事が終わった瞬間がいちばん危ないんやで。もう用なしやのに、依頼人やボスの顔を知っとるんやから〉
冒険小説風のテイストで物語は進行するも、それ以上の本書の魅力は、極度の緊張状態の中で紡がれる女同士の関係だろう。
時代背景の説明がやや不足しているなどいくつかの瑕瑾(かきん)はあるものの、チャレンジングな作品であることは間違いない。ルーツは違っても人はわかりあえるのだというメッセージを受け取った。