今日の文学において、ジェンダーやセクシュアリティは重要なテーマである。性的少数者に対する認識が深まってきたことも関係するかもしれない。とはいえ、性自認や性的指向の問題って想像以上に厄介なのよね。
残念ながら落選に終わったものの、今期芥川賞にノミネートされた川野芽生(かわのめぐみ)『Blue』もそんなことを考えさせる作品だ。
舞台はある高校の演劇部。文化祭に向けて、部はアンデルセンの『人魚姫』をアレンジした『姫と人魚姫』の上演を計画中だ。王子を姫に置き換えて、女性同士の愛を描いたオリジナル作品だ。
主人公の朝倉真砂は3年生の演劇部員。この子はトランスジェンダーで、二次性徴を止める治療を受ける一方、女子の制服を着て通学している。学生証の名前は戸籍名の朝倉正雄で写真も1年生のときに撮った男子の制服のままだったが、両親も学校もトランス女性としての真砂を認めていた。
元女子校で共学となった今も女子が多いこの高校は居心地がよかった。演劇部もやはり女子が多かったが、人魚姫役に立候補した真砂は見事にその役を演じきる。
〈人魚姫はずっと、海の上の世界に憧れてたんだよね。自分が本当にいるべき場所はそこだと思ってたわけ。自分は本当は人間のはずなのに、間違って人魚に生まれちゃったと思ってるわけ〉
という真砂の『人魚姫』の解釈は、自身のセクシュアリティとも重なるものだっただろう。
ところが3年後、かつての演劇部の仲間と再会し、再び『姫と人魚姫』を上演したいと聞いた際、真砂はいったのだ。〈主演は他をあたって。私はもう人魚姫はできないから〉〈女の子として生きようとすることをやめちゃった。今はね、男のふりしてる〉。
えええ、どうして? すると今は名前を朝倉眞靑に変えたという真砂はいった。〈大学入って、出会ったんだよね。お姫様に〉。
生来のものであれ、後天的なものであれ、性別は周囲との関係にも影響を及ぼす。別の例をあげれば遠野遥のデビュー作『改良』である。この小説の主人公は女装に傾倒している男子大学生だが、性自認は男性だった。ところが女装に性行為がからむことで、彼は性的アイデンティティの危機に直面する。セクシュアリティの問題はひとりじゃ完結しないのだ。
真砂改め眞靑が「女の子をやめた」のは、大学の同級生の不幸な恋愛を見かねたからだった。〈私が男だったら、そんな男やめて私にしなよって言えた。でも彼女をそいつと別れさせたところで、私が彼女と付き合うことはできない〉。だから男のふりを?
異性だ同性だという縛りが人を苦しめる。少し変わった、でも切実な性の多様性をめぐる物語だ。