文学は現在、ジェンダー格差が最も少ない分野のひとつだろうと思う。だが昔は違った。いかに実力本位の世界でも、文壇で女性が頭角を現すのは容易なことではなかった。
蛭田亜紗子『共謀小説家』は、そんな明治〜大正の文壇を舞台にした鬼気迫る業界小説だ。
主人公の宮島冬子は愛知県の豊橋生まれ。小説家を志して17歳で上京、著名な作家・尾形柳後雄(ゆうごお)の家の女中になった。尾形家には3人の内弟子がいて、皆執筆に励んでいる。冬子も雑用をしながら作品を書き続けていたが、師に見てもらうまでにはいたらない。
ある日、冬子は尾形の書斎に来るよういわれる。〈弟子には頼めない、お前にしかできないことだ〉。師が要求してきたのは性的な奉仕だった。要求はのちにエスカレートし、冬子は妊娠してしまう。動揺する冬子を救ったのは内弟子のひとりで同じ愛知出身の九鬼春明だった。〈おれと結婚して、腹の子はおれの子として育てればいい〉。しかも彼はいったのだ。〈あなたとおれで共謀しないか〉。
なんという下劣な師、そして不可解な弟子! なんだけど、この小説には実はモデルがいる。
尾形柳後雄のモデルは明治の文壇を席巻した尾崎紅葉、九鬼春明のモデルは紅葉の弟子だった小栗風葉だ。小説に描かれた性暴力事件が本当にあったかどうかはわからない。が、風葉が小説家志望の女性(冬子のモデルになった加藤籌子(かずこ))と結婚して豊橋の素封家の婿になったのは事実。
冬子は春明と東京で所帯をもつが、結婚生活は最初から破綻していた。新居は春明の仲間たちのたまり場になり、実家で息子を出産して戻ってみると、家には冬子の知らない女中や弟子がいた。
やがて尾形が死去。敬愛する師を失った春明は生きる気力も書く気力も失い、弟子に代作させるようになる。不出来な作品が春明の名で出るのを見かねた冬子は申し出た。〈私にも書かせてください。代作を〉〈結婚するとき、あなたは言いましたね。共謀しないかと。させてください〉。
尾崎紅葉はともかく、小栗風葉は今じゃほとんど忘れられた作家である。加藤籌子はもっと無名だ。そんなふたりを素材に虚実の皮膜をいくこの小説はしかし、当時の文壇事情を跳び越えて「ええーっ!」というほどおもしろい。
特に幼い息子を抱えて東京と豊橋を行き来する冬子のしたたかさは衝撃的。30歳になった冬子は不幸なできごとを乗り越えて原稿を書き上げ、『青鞜』とおぼしき女性だけの文芸誌『光耀』に届けにいくが……。時代に乗り遅れた作家と作家になる夢を捨てなかったその妻の物語。最後に明かされる「共謀」の真の意味に、読者は驚きながらも深く納得するだろう。