自分の代で家を終わりにする。先祖代々受け継いできたお墓を閉じる。大人世代の多くが直面する家族や相続の課題に、少し特別な立場で臨んでいる人がいる。家の歴史を社会につなぐ。徳川慶喜家を継いだ女性当主、その、たおやかなる奮闘。
「女性でも、姓が変わっても、私はこの家の一員。その意識は、ずっと、もっていたように思います」
爵位を授けた明治天皇にならって神道に改宗した慶喜。お墓参りの作法は神社と同様二礼二拍手一礼。ただし拍手の際に音を立てないのが決まり
叔父の遺志を継いで初の女性祭祀承継者に
東京・谷中(やなか)霊園。その奥まった一角に歩みを進めるうちに、厚く垂れ込めた雨雲が切れ、あたりが徐々に明るくなった。
頑丈な門扉を押し開くと、広々とした約300坪の敷地に、円形の上部が特徴的な石造りの墓が5基と、時を経て風格をまとったいくつかの墓碑が目に入る。江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜(よしのぶ)とその家族が、側近たちとともに眠る霊廟(れいびょう)。桜やモミジ、紫陽花など、取り囲む樹木や花木は前日から降り続いた雨でツヤを増し、緑は匂いたつように鮮やかだ。
「やっぱり、ここは“家”なんですよね。来るたびに自分の決意を問われるような心持ちになりますし、ご先祖さまから『がんばりなさい』と語りかけられている気もします」
霊廟の現在の管理者である山岸美喜さんが、しみじみという。確かに、慶喜とその妻・美賀子の墓を子供たちと孫と曾孫(そうそん)、慶喜のふたりの側室と長く家に仕えた侍女の墓が取り巻く様は、まるで広間に一家が集(つど)っているかのようだ。山岸さんは慶喜の男系女子の流れをくむ玄孫(げんそん)で、徳川慶喜家5代目当主であり同家の祭祀承継(さいししょうけい)者。女性当主はほかの徳川家にも例があるが、祭祀承継者は初めてである。
祭祀承継者、と聞いてピンとくる人は少ないかもしれないが、実はどの家にもある立場。民法には「慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者」と記載されている。お墓や仏壇、神棚などを管理し、先祖を祀(まつ)る法要や儀式を執り行う、つまりは「跡(あと)取り」と呼ばれる存在である。
山岸さんがその役割を引き受けたのは9年前、母方の叔父である第4代当主徳川慶朝(よしとも)氏から指名を受けての承継だった。正式な公表は’25年10月、なんと「X」上でのこと。発表までに8年の歳月を要したのには後述の深い事情があるが、これによって愛知県で暮らす主婦だった山岸さんは一躍、歴史愛好家をはじめ多くの人々の耳目を集める存在となった。
今年の春に徳川慶喜家のYouTubeチャンネル『徳川慶喜家の物語』を開設。6月には家を継ぐにいたった顛末(てんまつ)と現在の心情を率直に語った著書『葵の紋を継ぎまして。』を出版したばかりである。
「歴史好きのかたをはじめ、多くのかたがたから反響をいただいております。私が当主であることについては『女性で、しかも徳川姓でもないのに、なぜ?』というご質問が、やはり多かったですね。表に出ることには、とても勇気がいりました。しかし、名実ともに当主となったからには、徳川慶喜家のことをきちんと伝える責務もあると感じていたんです。そうでないと、この先、徳川慶喜家のことが歴史の中に埋もれて、なかったことにされてしまう。それではあまりにも、ご先祖に対して申しわけないですから」
徳川家には将軍職を継いだ宗家(そうけ)筆頭に12の家があり、徳川慶喜家は、その名前のとおり徳川慶喜が興(おこ)した家。他家と比べて歴史は浅いが、明治天皇からは宗家と並んで華族最高位の公爵を授けられた家格である。しかし、大政奉還後に慶喜がいっさいの公職から退き、隠棲したこともあって、その家風はいたって質素。豪奢な暮らしとは無縁だったという。
「慶喜公の曾孫である母は家風を厳格に継いだ人で、常々『その日食べられるごはんがあり、屋根のある家に住めて健康であれば、それだけで贅沢』といっていました。私自身は生まれたときからサラリーマン家庭で育ち、徳川家のことも慶喜公のこともそれほど意識したことはありませんでしたが、お正月に大叔母である高松宮さまの御殿に招かれたときのことは、強く印象に残っています。こんなきらびやかな世界とつながりがあるんだと」
4代目当主の慶朝氏は、山岸さんの母の弟。幼いころから山岸さんをかわいがってくれた優しい叔父だった。
「年の若い叔父だったので、『アンクル』と呼んでいました。とてもユニークな人で、徳川家の跡継ぎなのにカメラマンになった自由人。多趣味なところは、慶喜公譲りかもしれません。でも、先代の祖父が外国に行って家を離れたため、若くして当主を継ぐことになったアンクルは、ずっと重圧を感じていたのだと思います」
結婚してのちも懇意にしていた慶朝氏が体調をくずしたのは、’14年。2つの臓器にできたがんのうち、ひとつは末期の状態だった。慶朝氏が暮らす茨城県の町へ通って介護したが、3年後に死去。それ以前から慶朝氏は、あとのことを山岸さんに任せたいと語っていたという。
「親族にはほかに親しい人もなく、結婚歴はあったものの、離婚して家族とも疎遠。かつて私の上の兄が慶喜家を継ぐと申し出たことがありましたが、アンクルは承諾しませんでした。それなら、私しかいないのかもしれないと……」
実は山岸さんは、生前の慶朝氏から、ある決意を聞かされていた。それは、徳川慶喜家を絶家(ぜっけ)に、つまりは“家じまい”すること。当主の座と、それにまつわるもろもろの重荷をもう次世代に担わせたくないという叔父の遺志を受けて、山岸さんは「現代の大政奉還」と自ら名づけた一大事に取りかかったのである。
(中編に続く)
江戸から令和へ。最後の将軍とその末裔「徳川慶喜家」とは?
徳川家康を祖とする徳川家には12の家があり、それぞれが明治維新後に爵位を得て華族となった家々。その筆頭が征夷大将軍の家である「宗家」で、家康の息子が興した尾張・紀伊・水戸の「御三家」、徳川将軍家のかたわらに仕え、時に将軍を輩出した一橋家、清水家、田安家の「御三卿(きょう)」と、その分家が属する。
江戸時代最後の将軍である徳川慶喜はもともと宗家だったが、幕末の時点では実子がなく、大政奉還後に御三卿の田安家から養子を迎えて宗家を譲り、表舞台から身を引いた。しかし維新後、宗家と並んで華族の最高位である公爵に列せられ、新たに徳川慶喜家を興すことに。慶喜はのちに多くの子に恵まれ、七男の慶久が2代目、その長男慶光が3代目を継いだ。
山岸さんの母は慶光と幕末の会津藩主・松平容保(かたもり)の孫である和子の長女で、旧姓は徳川。また、徳川慶喜家は慶久が有栖川宮親王家から妻を迎えたことから皇室と縁が深く、故・高松宮宣仁親王妃喜久子は山岸さんの大叔母にあたる。
晩年の徳川慶喜。胸の勲章は大政奉還の功績により受けた勲一等旭日大綬章
慶喜直筆の「東照宮遺訓」
終の住処となった小石川第六天町(現・文京区春日2丁目)の御殿を慶喜自らが撮影した写真
軽井沢別邸での家族の肖像。左から2代目当主慶久、長男慶光、のちに高松宮妃となる次女喜久子、慶久の妻實枝子
喜久子を抱く最晩年の慶喜。喜久子妃はのちにこのときの思い出を〈抱かれし祖父がこころを百年のけふぞしずかに思ひみるかな〉と詠んでいる
「アンクル」こと慶朝氏と山岸さん。心許せる間柄だった
Information
『葵の紋を継ぎまして。』 山岸美喜 KADOKAWA ¥1,980
バブル時代を謳歌した専業主婦が、ある日突然、最後の将軍家を継ぐことに――。親族や関係者とバトルを繰り広げ、時に打ちのめされながらもたくましく道を切り開く姿に、エネルギーと希望をもらえる一冊。素顔の慶喜や徳川家にまつわる人々の意外な一面に加え、世の話題となった徳川埋蔵金の真実(?)など、愉快なエピソードも満載。
やまぎし みき●’68年、東京都生まれ。英国留学、外資系企業勤務ののち結婚。’25年より徳川慶喜家第5代当主。YouTubeチャンネル『徳川慶喜家の物語』主宰。祖母・徳川和子との共著に『みみずのたわごと 徳川慶喜家に嫁いだ松平容保の孫の半生』(東京キララ社)がある。
撮影/目黒智子 ヘア&メイク/金澤美保(MAKEUPBOX) 取材・原文/大谷道子 写真提供/山岸美喜 ※エクラ2026年9月号掲載