文芸評論家・斎藤美奈子さんが、逢坂冬馬著『その犬をください』を紹介。『同志少女よ、敵を撃て』や馳 星周の『少年と犬』もあわせて読みたい。
『その犬をください』
逢坂冬馬
KADOKAWA ¥2,145
近現代の日本を舞台に、犬あるいは犬とかかわる人々を描いた4編からなる連作短編集。物語の核となる部分は史実に基づいており、知っているようで知らなかった犬の意外な歴史に触れる楽しみもある。ハチ公が有名になる前、日本中を熱狂させたのは、日中戦争への端緒を開いた満州事変に徴用され、敵陣に切り込んで戦死した軍用犬「金剛と那智」だった、というエピソードも印象的だ。
明治から現代までの日本を舞台にした"犬と戦争"の物語
人間と犬は、はるか昔からともに暮らしてきた。紀元前のエジプトの壁画やレリーフにも犬の姿が描かれているし、縄文時代の遺跡からも犬の骨が見つかっている。ゆえに犬を描いた古今東西の文学作品も少なくない。
『その犬をください』は、デビュー作『同志少女よ、敵を撃て』が大ヒットした逢坂冬馬の最新刊。明治から現代までの日本を舞台に、人と犬とのかかわりを描いた連作短編集である。といっても、人とペットの心温まる物語ではない。
第1話「未開の咆哮」の語り手は明治最初期のお雇い外国人、ジョージ・スミスだ。開成学校で日本人に農業を教えるために来日した英国人のスミスが驚いたのは〈およそ信じがたいことに、日本人たちは、誰かがどの犬を飼う、という発想そのものをほとんど持っていない〉ことだった。市中には野犬の群れが野放しになっており、犬はしつければ人のいうことを聞くという認識すら人々はもっていなかった。スミスは学生たちに牧羊犬を紹介する一方、文明国として日本がなすべきことを教える。狂犬病の根絶、人に危害を与える野良犬の削減、そして犬種の確定だ。人が犬を管理する体制がここで整ったことになる。
しかしこのあと、人と犬との関係は一筋縄ではいかなくなっていく。
第2話にあたる「忠犬誕生」は、今も渋谷駅前に銅像が立つ、あの「忠犬ハチ公」の物語だ。主人亡きあともハチが駅で主人を待っていたという話は有名だが、昭和7(1932)年の新聞記事から広まったこの逸話の裏には知られざる「真実」があり、またこの記事は思わぬかたちで国策と結びついていく。
ことの発端は、日本犬保存会の会長・斎藤弘吉による〈秋田犬のハチが渋谷駅前によくいること、そこで心ないものから悪戯(いたずら)をされていること〉を訴えた投書だった。それが記事では忠臣蔵もかくやの大仰な美談に変わり、空前のハチ公ブームが起こって、やがてハチの銅像を、という話が持ち上がる。
日本が軍国主義に向かっていった時代である。「忠」犬という呼称も、主(あるじ)への尊称である「公」がついたのも時代と結びついている。結果的にハチ公は、ナショナリズムをあおるプロパガンダに利用されていく。〈国民はハチ公に学ぶべきなのだ。学ぶべきこととは、主人への忠義。日本臣民の「主(あるじ)」とは、すなわち天皇陛下と御国である〉と。
4編に共通するのは、犬と国策、あるいは犬と戦争についての物語であることだ。第3話「犬たちの戦争」は戦争中の犬の出征(犬の供出。事実上の抹殺)を、第4話「スランプ」は引退して一般家庭に引き取られた元麻薬探知犬を描いている。動物の物語は「かわいい」と「かわいそう」で語られがちだけれど、犬は社会を映す鏡である。擬人化されない犬たちの物語。犬好きの人にもそうでない人にもきっと「刺さる」個所があるはずだ。
あわせて読みたい!
『同志少女よ、敵を撃て』
逢坂冬馬
ハヤカワ文庫 ¥1,375
1942年、独ソ戦のさなか、ドイツ軍の襲撃で村人たちが惨殺されたモスクワ近郊の村。この村で生まれ母親を殺された16歳の少女セラフィマは、復讐心を胸に、やがてほかの少女とともに狙撃兵の訓練を受け、前線で戦うことになる。圧倒的な迫力で読者を驚かせた’22年の本屋大賞受賞作。
『少年と犬』
馳 星周
文春文庫 ¥946
東日本大震災で飼い主とはぐれたオス犬の「多聞」を軸にした7編からなる連作短編。震災直後に被災地で拾われたのを皮切りに、多聞は次々に新しい人と出会い、東北から5年かけて熊本にたどりつく。そこにはかつて釜石で知り合った仲よしの少年がいた。感動を呼んだ’20年の直木賞受賞作。
文芸評論家・斎藤美奈子
さいとう みなこ●文芸評論家。編集者を経て’94年『妊娠小説』でデビュー。その後、新聞や雑誌での文芸評論や書評などを執筆。『出世と恋愛』『あなたの代わりに読みました』『ラスト1行でわかる名作300選』ほか著書多数。近著に『絶望はしてません ポスト安倍時代を読む』(筑摩書房)。
photography:Haruka Saito ※エクラ2026年12月号掲載