自分の代で家を終わりにする。先祖代々受け継いできたお墓を閉じる。大人世代の多くが直面する家族や相続の課題に、少し特別な立場で臨んでいる人がいる。家の歴史を社会につなぐ。徳川慶喜家を継いだ女性当主、その、たおやかなる奮闘。
こんなにも認めてもらえない。でも、前に進まなければ
普通の家ならば、関係者と協議して家と物を処分し、遺骨を移して“墓じまい”をすれば完了する。それだけでもかなりの労力だが、徳川慶喜家は家の歴史がそのまま国の歴史につながる特別な家。ことは、やすやすとは運ばなかった。
まず、慶喜家にまつわる6000点もの史料が、山岸さんに重くのしかかった。
「多くは手紙、写真の類でしたが、手紙1通、写真1枚にしても、いつ誰から送られたものか、誰が写っているのかが日本の歴史の一部だと思うと、簡単に判断して処分できるものではありません」
さらには、お墓の問題。霊廟は、徳川将軍家代々の菩提寺であり祈祷所である寛永寺が谷中霊園にもつ敷地の中にあるが、塀や墓碑の傷みが進んでいた。特に慶喜の墓は東京都指定史跡でもあるため、軽々(けいけい)に手はつけられない。
そして、山岸さんにとっての最大の障壁は、当主を継ぐことへの周囲からの強固な反対だった。特に実父や一族の男性たちからの非難や非協力的な態度に、何度も心折れる経験をしたという。
「徳川家と血のつながりをもたないコンプレックスからか、父はなぜお前なのか、家督をよこせといわんばかり。私ではなく兄が継ぐべき、なかには、まったくかかわりのない私の夫が継ぐべきだという人もいました。ほかにも、分家のかたが突然権利を主張しはじめたり、史料の移転をお願いした先で冷遇されたり……。女性であることでこんなにも認めてもらえないのかと憤り、落ち込みました」
明治以降の天皇・皇后の墓と同じ上円下方墳。下に棺と骨壷を納めた石室がある。
扉には葵の紋。顕彰碑には近代国家の礎を築いた慶喜の功績が刻まれている
それでも、持ち前の積極性を発揮して行動しつづけると、ひとり、またひとりと手をさしのべる人が現れはじめた。
親身になって相談に乗ってくれた別の徳川家の当主や、何年も疎遠にしていながら山岸さんの心情を理解し受け止めてくれた母の従弟など「意外な人が味方になってくださった」と山岸さん。さいわい、信頼できる弁護士にもめぐりあい、家じまい、墓じまいへの準備を整えていく。
逆境の中、なぜそこまでできたのか?
「ひとつには、やはり徳川慶喜家への愛着。私自身は徳川姓ではなかったし、結婚してさらに姓が変わりましたが、それでも家の一員なんだという気持ちは、どこかにもっていました。独身時代、外国人の男性とお付き合いしていたときも、私の中では『国際結婚は、ないな』と。海外に出てしまえば、徳川との縁が切れてしまうような気がしたんです。そしてやはり、すべてにおいて正しくあるべきだという正義感のようなもの、でしょうか。あるとき夫に『きみにはノブレス・オブリージュ(フランス語で「高い地位には義務が伴う」の意)があるんだね』といわれましたが、恵まれた家で育ってきたぶん、歴史を正しく後世に伝え、世の中につくさなければならない……そんな意識が根底にあるのかもしれません」
〈人の一生は重荷を負(おい)て遠き道をゆくが如し/いそぐべからず(中略) 堪忍(かんにん)は無事長久(ぶじちょうきゅう)の基(もとい)/いかりは敵とおもへ(後略)〉
徳川家康が子孫に遺した「東照宮御遺訓(とうしょうぐうごいくん)」の、まさにその心境だったのではないだろうか。だが、あきらめずに道を探った山岸さんに、大きな出会いが訪れる。
(後編へ続く)
Information
『葵の紋を継ぎまして。』 山岸美喜 KADOKAWA ¥1,980
バブル時代を謳歌した専業主婦が、ある日突然、最後の将軍家を継ぐことに――。親族や関係者とバトルを繰り広げ、時に打ちのめされながらもたくましく道を切り開く姿に、エネルギーと希望をもらえる一冊。素顔の慶喜や徳川家にまつわる人々の意外な一面に加え、世の話題となった徳川埋蔵金の真実(?)など、愉快なエピソードも満載。
やまぎし みき●’68年、東京都生まれ。英国留学、外資系企業勤務ののち結婚。’25年より徳川慶喜家第5代当主。YouTubeチャンネル『徳川慶喜家の物語』主宰。祖母・徳川和子との共著に『みみずのたわごと 徳川慶喜家に嫁いだ松平容保の孫の半生』(東京キララ社)がある。
撮影/目黒智子 ヘア&メイク/金澤美保(MAKEUPBOX) 取材・原文/大谷道子 ※エクラ2026年9月号掲載