小岩井農場の一角に誕生したホテル「Azuma Farm Koiwai」。雄大な岩手山を望み、130年以上にわたり育まれてきた自然が息づくこの地を、岩手県出身の作家・柚月裕子さんが旅した。
Azuma Farm Koiwaiが位置するのは、盛岡駅から車で約30分、雫石町にある小岩井農場の北部。約8ヘクタールの広大な森に囲まれた草原に、レストラン・ラウンジ棟、プライベートサウナ3棟、ヴィラタイプの客室24棟などが点在する。設計を手がけた建築家の三浦史朗氏は、縄文時代の集落をイメージしたという
イーハトーブの風に吹かれて――文・柚月裕子
岩手山の裾野に、そのホテルはある。
人で賑わう小岩井農場を横に見て、ひたすら車を山に向かって走らせると、やがて小さな看板が現れる。ホテルへの道案内だ。その指示に従いひたすら車を進めるが、行けども行けどもそれらしき建物は見えてこない。
もしかして道を間違えたか、と思いはじめたとき、樹木に覆われていた視界が一気に開けて広いスペースが現れた。宿の車寄せだ。大きな正面玄関の前で、スタッフの方が笑顔で迎えてくれた。
Azuma Farm Koiwaiは雄大な自然のなかにある。目の前には谷や尾根まではっきりと見えるくらいの岩手山が大きく聳(そび)え、ラウンジ、レストラン、ヴィラタイプの客室がある広い敷地は、森や林に囲まれている。
Azuma Farm Koiwaiは、建物をはじめ、照明や器といった目に見えるものから、空気や音、香りといった目に見えないものにまでこだわりを持っていた。それは「岩手」と「自然」だ。岩手に流れているゆったりとした時間に身を置き、この土地の自然と文化に触れてほしい、というホテルのコンセプトがそれらに表れていた。
一歩、建物のなかへ入るとさわやかな木の香りがする。柱や梁だけではなく、置かれているテーブルや椅子、カウンターなども木製だ。それらの多くは、小岩井農場の敷地にある樹木が使われているが、森がなくならないよう、1年間で成長する分のみを計画的に伐採しているという。そのことからも、ホテルが自然を大切にしていることがよくわかる。
プライベートサウナ棟「フォレスト・スプリングス」の水風呂に映る木々の緑。1棟89㎡の空間に薪サウナ、水風呂、暖炉を囲むリラクシングチェアなどがあり、心身が癒される。冬は窓の外が雪景色に
置かれているオブジェや敷地の道を照らしている街灯なども、岩手の自然や岩手ゆかりの詩人である宮沢賢治作品にちなんだものが多く、レストランの照明は、岩手の空に浮かぶ雲がモチーフになっている。高い天井でそれらが揺れる姿を見つめていると、本当の雲を眺めているようで心が和む。
食事もそうだ。洋食も和食も岩手県産の食材を中心に使われていて、これがたまらなく美味しい。短角牛のステーキやほろほろ鳥のロースト、八幡平サーモンなどどれも美味しいが、なかでも小岩井牛乳と春野菜たっぷりのクラムチャウダーは絶品だ。スープはシンプルな料理だからこそ素材の味がよくわかる、と言われているが、このスープは野菜の出汁がたっぷり出ていて、新鮮な牛乳を使用しているためコクは感じるがしつこくない。あっさりしているのだ。口に入れると舌だけではなく、身体が喜ぶ。野菜と牛乳の栄養が身体の隅々まで行きわたり、ひと口飲んだだけでも日頃の疲れが消えていく。
ホテルの敷地内にはサウナもある。汗をかき水風呂に入ったあと、チェアやソファでゆったりしながら、大きな窓から自然を眺める。なんという贅沢な時間だろうか。
やがて陽が暮れて夜になると、あたりは一層静かになる。聞こえてくるのは風の音と、どこかで鳴いているカエルの声だけだ。
敷地に見える灯りは、ラウンジとレストラン、宿泊者が使っているヴィラ、道に点在している小さな街灯だけだ。
食事を終えて自分の部屋の風呂に入ったあと、涼むためにヴィラを出た。汗ばんだ肌を、冷たい風が冷やしていく。
ホテルの施設が点在する草原を豊かな森が囲む。かつて岩手山の火山灰に覆われた荒れ地だったこの地は、明治期に小岩井農場の開設とともに開墾・植林が始まり、130年以上の歳月を経て、生命あふれる森へと育まれた
心地いい風に吹かれながら、ここはイーハトーブだ、と思った。
夜空にチラチラと瞬く星の光は『銀河鉄道の夜』、闇を照らしている街灯は『春と修羅』、樹木の枝を揺らしている風は『風の又三郎』で、冬になり雪が積もれば『雪渡り』だ。
ここには、宮沢賢治が見た景色がそのままの形で残っている。そう感じながら佇んでいると、ふとあることに気づいた。自然とは変わり続けること、である。
たとえば頭の上で瞬いている星の光、樹々の枝を揺らしていく風、暖炉で燃える炎、植物の蔓、浜辺に寄せては引く波、常に動き続け一秒たりとも同じではない。
それは人も同じだ。心臓は鼓動を刻み、肺は呼吸で収縮し、血液は身体をめぐる。それらは自分が意識して動かしているのではない。星の瞬きや風、炎、波と同じように、自然のままに動いている。
人はときに、変化を恐れる。変わることに戸惑い、立ち止まり、悩む。しかし、ここにくると、変わっていい、と思える。人も自然と同じなのだから、日々変わるのが当たり前だと気づく。
長い歴史のなかで、人は安定を求めてきた。安定があるから、安全に過ごせてもいる。しかし、安定に固執し変化を恐れることは、自然からどんどん離れていくことではないだろうか。
いま、何かに囚われて動けずにいるならば、このホテルを訪れてほしい。なにかに追い込まれて疲れ切っているのなら、ぜひこの土地を訪れてここの自然に触れてほしい。美しい景色と美味しい料理、上質な空間があなたを癒してくれるから。
ゆづき ゆうこ●’68年、岩手県生まれ。’08年、『臨床真理』で「このミステリーがすごい!」大賞を受賞し、デビュー。’13年『検事の本懐』で大藪春彦賞、’16年『孤狼の血』で日本推理作家協会賞を受賞。ほかに『最後の証人』『検事の死命』『朽ちないサクラ』『慈雨』『盤上の向日葵』『狂犬の眼』『暴虎の牙』『ミカエルの鼓動』『教誨』『風に立つ』『逃亡者は北へ向かう』など著書多数。
Azuma Farm Koiwai
’26年4月、岩手・小岩井農場の一角に開業したラグジュアリーリゾートホテル。世界的なホテリエ、エイドリアン・ゼッカが瀬戸内海の「Azumi Setoda」の次に立ち上げた新ブランド「Azuma Farm」の第1号施設。「A Down to Earth Farm Stay(大地を感じるファームステイ)」をコンセプトに、土地の風土や食、文化に深く触れる滞在をかなえる。小岩井農場を基点に、ホースバックライディングやネイチャーツアー、チャグチャグ馬コ体験、南部鉄器のクラフト体験など、東北の魅力を体感できる多彩なアクティビティも用意している。
Data
岩手県岩手郡雫石町丸谷地68の77
☎050・4561・5182
2名1室¥235,400~
飲食料金、館内アクティビティ等を含むオールインクルーシブ(ランチ、プライベートサウナ、一部ドリンク、館外アクティビティは別料金)
https://azumafarms.com/ja/
撮影/HAL KUZUYA ヘア&メイク/茂手山貴子 ※エクラ2026年9月号掲載